「万里さん、タバコやめるんですか」
桃子は聞き間違いをしたのではないかと、思わず聞き返した。
「そうなの。大和君に『タバコ、やめませんか』って言われちゃったのよ」
いつものように万里のために居酒屋の喫煙席を予約していたが、席に着くなり万里が灰皿を隅によけたのはそういうことだったのか。
「まぁ、ちょっとずつ。無理せずに、ね」
鮮やかなグリーンのスカーフを巻いた細い首を傾げて、万里は手元の中ジョッキに手を伸ばした。
以前、「男に振り回されるなんて馬鹿らしい」と言っていた万里が、片思い中の男性のために「死んでも離さない」と宣言していたタバコをやめようとしている。
それくらい彼のことが好きなんだ。
たとえ奥さんのいる人でも。
相手がどういう人だろうと相手の良いところを見つけて好きになり、その人のために一生懸命になれる万里のことがうらやましく思えた。
そして、目の前にいる万里が可愛らしく思えた。
一人っ子の桃子にとってハタチ近く年の離れた万里は姉であり、憧れの女性でもあるが、可愛らしいと思ったのは初めてかもしれない。
「ところで桃ちゃん、あの男はどうなったのよ」
万里は何かを思い出そうとする時、必ずと言っていいほどロダンの『考える人』みたいなポーズをとる。
いつもなら片手にあるはずのタバコがないだけで、万里が別人のように見えてしまう。
「ほら、あいつ! 弁たま!」
「弁たま、って……光太郎?」
「そう! そいつ! 弁たま光太郎はどうなったのよ」
桃子の箸先から、出汁巻き卵が滑り落ちた。